きょうはお盆テキスト。
私の祖父の一人は「コロナ禍」というのが言われ始めた年にお空のほうに行きなすったんですね(COVID-19が原因ではないのだが)。
その年、ニュースとともにSNSもたいへんな騒ぎだったですが、それを見て私は
「自分の身のまわりをまずちゃんとしよう」
「身近な人とまめに連絡をとりあおう」
と思い、親族にメールをしました。
その前から結構(話は端折りますが)病院いっていた祖父は「連休にでも来て下さい」と言ってました。
結局、帰省も控えたのでその年生きてるうちに会うことは叶わなかったのが残念ですが
その時連絡をとったおかげでせめて少しは言葉を交わすことができ、
それがなかったら「連休来てほしがってたなぁ」とか思うこともできなんだので、ちょっとはよかったのかなと思います。
身近な人に連絡とろうっていうのは
一から自分で考えたというよりは、当時Twitterの趣味垢で相互だった(過去形)人のツイデモ仕草を見て自分の身の振り方を考えたようなところがあります。
その人はまあそれが最適行動なんだろうと思うのでいいんですが
自分にとっては自分のが後悔のない選択となったのでこれからもそうすると思います。
(もしその人に言ったら、ツイデモと身内連絡を両方するのが当たり前!って長文ツリーでTLを流しまくっている所が想像できます。笑笑)
少しそれましたが
というのが、そろそろ自分の身の上話として書いてもいいかなと思ったので書いてみた次第。。
ここからはいつものくだまき
悲しいときや辛いとき、世情が荒れているときは、親しい人とだけ一緒に過ごすのが一番いい。
インターネットは便利だし普及もしましたわね。
しかしながら、ネットコミュニティは今も昔も孤独な人間のためにだけ存在していると私は思います。
これは別にキモ・オタクが遊び場を独占しようとして言っているのではないですよ。
家族や親しい友人を持つ人がここから得られる利益などなにもないということ。
ただ、今のSNSユーザーは
「プライベートな状態」がどういうものかを本当に「知らない」のかもしれないとも思うことがあります。
友人が少し前に「公共空間」としてのネットの使い方がなっていないと警鐘を鳴らしていたのを見ましたが、逆かもしれないということです。
これはデジタルネイティブの若い人もそうかもしれんし、
高齢でもネットをあんまり検分せずに何となく使い始めてやがて慣れた人は、そうなっていると思う。
最近フォローしたアカウントを見ていると
人からのリプライの本当の避け方や、
自分の考えていることを人に見せないという選択肢があることを
本気でわからないといった様子がある。
それで知らない人どうしで驚きあい
デッドロックのように相手がいなくなるのを待っている。
これが私の目には非常に変にうつる。
「知らない人とも交流できる」なんていう能動的な楽しみ方では到底ないんですよ。
「人が見ている場」でなにもかもを喋ることは、私には考えられないことなのですが、
人々は自白剤を投与されたかのようにここで全てを話し、苦しんでいる。
「ネットで知らない人と話して何になるの」って、昔はネットに理解がないお母さんとかのセリフだった。
けど、ネットを20年やった私は思うようになりました。
ネットで知らない人と話して何になるのと。
そしてそれは有名人だって例外ではないんです。
色々、世の中を変えようと活動してる人はえらいと思うけど
少なくとも相手の眼を見れない場所での活動に身を捧げて削るのはアカンと思うんですよ。
友達に寄り添えなかったと悔やんだ人は
もっと友達にかける時間を増やしたほうがいいのであって・・
実体の見えてない「社会」に向き直るより、そっちがよっぽど私たちの「社会」の真の姿なんやから。
顔もだしてない本もだしてない一般人が言っても説得力ないけど、少し前にそんなことをちょっと思ったりしたんですよね。
皆がそうするようになればクソの役にも立たん無駄な「いいね」の平均値はもう少し下がってくると思う。
今、10万とかでしょう。
いりませんよ。
というわけで、Twitterアルゴリズムの悪口は次回にまわしましょう
みなさん台風に気をつけて過ごしてくださいね。